ブックタイトル社外報34号

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概要

社外報34号

特集"春の慶次"を知るのでござる!3月に入り、長かった冬景色ももうすぐ終わり、待望の春の足音が聞こえてきそうな季節になってきましたね!4月から、米沢藩ゆかりの戦国武将で知られる『前田慶次』のドラマがいよいよ始まります。知っているようで知らない、前田慶次の素顔やゆかりの場所をご紹介したいと思います!(宮坂考古館蔵)朱しゅ漆うるし塗ぬり紫むらさき糸いと素す懸がけ威おどし五ご枚まい胴どう具ぐ足そく南なん蛮ばん笠かさ式しき前田慶次は旧海東郡荒子(現在の名古屋市中川区荒子)という村で生まれ、出生年は不明。おおよそ天文10年(1541年)頃。父は滝川左近将監一益のいとこ儀太夫益(※1)氏で、慶次はその庶子である。母が前田犬千代利家の兄蔵人利久と結婚したので養子となり、前田の姓を名乗り慶次郎利益(利太)になった。幼名は宗兵衛。諱(いみな:前田慶次郎○○)はいくつもあり、利益・利太・利大・利卓・利治・利貞など記録によって様々で、時期によって使い分けていました。天正15年に父を亡くし、突然利家の元を離れる。前田家を出た慶次は京都に身をおき、悠々自適の生活を送っていた。この時既に60才近かった。頭を丸めこくぞういんひょっとさい「穀蔵院飄戸斎」という名乗りは、傾奇者というより遊び心からかもしれない。この時期、直江兼続との出会いがあり交わりを深めていきました。慶長3年(1598年)8月に秀吉が他界。徳川家康が政権を掌握。同年9月15日、西軍:石田三成と東軍:徳川家康が関ヶ原にて戦う。これが天下分け目の戦い関ヶ原の合戦の始まり。激戦が続く中、兼続の元に関ヶ原での石田三成率いる西軍敗戦の知らせが届き「もうここで戦う意味がない」と撤退を余儀なくされた上杉軍は、最上・伊達勢を主軸とし(※2)た徳川側の軍により猛烈な追撃を受ける。直江兼続に従い共に殿軍を引き受けたのが前田慶次であった。慶次は三間柄(5.4m)の大槍を持って、群がりくる最上勢の中に縦横無尽に分け入って戦っては退き、戦っては退くという見事な戦いぶりで、味方の将兵を誰一人傷つけなかったと言われています。関が原の合戦敗戦後、上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石に減移封。慶次は、米沢の堂森に庵(無苦庵)を構え、悠々自適の生活を送り世俗にこだわらず、地元住民と深く交わり自然とともに穏やかな生活を送ったと伝わっている。そのころ親しかった住民たちに贈った慶次所縁の品々が、米沢市堂森の地で代々引き継がれ現存している。堂森には無苦庵に居した慶次が日々の暮らしに使ったと伝わる慶次清水と呼ばれる清水が湧き出ている。堂森に1200年余り続く堂森善光寺には、慶次の供養塔が建立されており、慶次が他界した6月にはあじさい忌が行なわれている。供養塔の碑文には、「この地堂森に居を賜り邸を『無苦庵』と呼び、この地を愛し民と親しみ、慶長17年6月4日70才の生涯を閉じた」と刻まれています。※1庶子…嫡子以外の実子しんがり※2殿…軍隊が退却するとき、最後尾にあって追ってくる敵を防ぐ役■写真提供宮坂考古館02Kawashima-Tsushin Mar.2015 Vol.34